世界平和なう 詳細
世界平和なう:マニラに高飛びしたくなった日
2018/02/08(木)
ちょっと前、フリマアプリで不要品を処分していた時のこと。
モノは良いけど、かなりガタがきてメンテの必要な自転車を出品すると、すぐに応募があった。
車で引き取りに来たHさんはすこぶる感じの良い初老の男性だった。自分で修理できるというので交渉成立し、引き取ってもらうことに。
いざ自転車を車に積み込むという時になって、Hさんは言った。
「ちょっとまけてくれませんか?」
来たよ、来たよ。アプリとはいえ、そこはやはり「この人、値切るのが趣味なんじゃないか?」という感のあるフリマの世界。(余談だが、リアルなフリマで100円で出したものを「50円にまけてくれませんか?」と言われたこともある。その値切りに意味はあるのか!)
一瞬、頭の血管がピクっと浮いたものの、頼まれると嫌とは言えない“自称イイ人”のぼくは「いいですよ」と爽やかに応じて5000円を3000円にして渡した。とても感じが良い人だったのでそんなに悪い気はしなかった。
でも、Hさんの車を見送った後で、
「500円刻みで下げていけばよかった…」
とクヨクヨした。Hさんのことを高そうな車に乗っているのにけっこうセコい人だなと思った。
それからHさんの評価をして取引を終えようと彼のアカウントを見ていると、中古の自転車を頻繁にゲットしていることが判明。
あれ?
転売目的なのかな?…
商売でやってる人なのかな?…
転売目的なのかな?…
商売でやってる人なのかな?…
でも、まあいいや。処分したいものを処分できたわけだし。
それから一週間ぐらい経つ間にインターホンのカメラにHさんが何度か録画されていた。不在時に訪ねて来ていたのだ。
連絡すると「名義変更の手続きに必要な情報が足りない」とかで来られたということだった。連絡先は交換してあるし、アプリを通じてメッセージのやりとりも出来るのでなんでいきなり来るのだろう?と思った。それも結局は問題なく出来たらしい。Hさんはメッセージのやりとりでも誤植が多かった。そそっかしい人なのかなと思った。
後日、アプリの画面に表示された近所の出品一覧に、ぼくが譲った自転車が8500円で出品されているではないか!
「あーっ!見っけ、見っけ!やっぱり転売目的だったんじゃないか!」
ここでまた頭の血管がピクっと浮いた。
ぼくは彼の投稿に、
「転売目的なら値下げするんじゃなかった」
と書き込んだ。ぼくの損を得に換えたであろうHさんに怒っていた。自分が値下げし過ぎたことにも怒っていた。
すぐにHさんは出品を取り下げ、返信してきた。
「前後のギア、チェーン、ブレーキのワイヤなど全部変えました。出品しちゃ駄目ですか?」
取引の規約にはふっかけなければ転売もオーケーと書いてある。
それだけ手を加えてその値段ということはパーツ代だけ計算しても儲けなど全く出ないどころか赤字だ。
それがわかっても何かよくわからない怒りが胸の奥にあった。
「規約違反ではないし、どうぞ続けて下さい。でも、それだけ部品を交換してその値段なら儲けなんて出ないんじゃないですか?」
するとHさんは、
「ボケ防止のために中古の自転車を修理しては売ってるんです。そのパーツ代を稼ぐためにいくらか値段を上乗せしています。わたしの説明不足でした。すみません。」
と言った。
あ"…。
うぉー!!!(羞恥心x100000)
今すぐマニラに高飛びしたいーーーっ!
言ったこと全部、「最近のメッセージ、ぜんぶウソだよ~ん」ってことにしたい!
うちに来た時のHさんの腰の低さ、柔和な人柄、メッセージの誤植の多さ、釈然としない行動など全てが一つのパズルのようにはまった。
「こちらこそ自分が損するわけでもないのに難癖つけてごめんなさい。儲けを出さずにしかも手間ひまかけてリサイクルして人の役にも立つリハビリなんて素晴らしいです!」
ぼくはふだん貧困に喘いでいるわけじゃない。それでも不要品にまだ価値があるとみれば、値をつけることもある。そして、値引き交渉の後にせいぜい千円、二千円の違いなのにクヨクヨしたりもする。けれど、そんな時の自分をセコい奴として認識してはいない。
それが人のことになると、「あ、この人セコい!」と思う。あたかもその人の背格好とか年齢とかの属性と同じように、絶対不変の特徴のように「セコい人」というレッテルをその人に貼り、それを非難する。もしかして、一連のHさんへの濡れ衣は、自分自身に抱いているネガティブな感情を受け入れたくないとい心の顕われなのではないだろうか。
ぼくがセコいと否定的にとらえているのは本当は自分自身のことのような気がした。セコい自分を認めたくない、かといってそんなに気前良くもなりきれないという日々の葛藤が逃げ場を求めて外へ向かった結果なのだ。そのセコさを自分から剥がして人に着せて、放っておけば自身に向かってしまう嫌悪感を身近な“敵”にぶつけているだけなのだ。
ぼくは自分が関わる他者(世界)を自分の心のフィルターを通して「こういう人だ」、「こういう世界だ」と一瞬一瞬認識し続ける。そのフィルターをはずして客観的な他者(世界)を見る事は生きている限りできないかもしれない。ならば、外の世界を見るのと同じだけ心の内側も見ていよう。そうすれば自分が何を心の外に映しているのかが見えるから。