世界平和なう 詳細
世界平和なう:純粋さの違い
2018/04/26(木)
みなさん、プラ・ヴィダしてますか? SECOMしてますか?みたいだな。コスタリカの挨拶で直訳すると「純粋な人生」。ふつうは「最高だよ」、「元気でね」、「楽しんで」という意味で使われるそうな。
映画「コスタリカの奇跡〜積極的平和国家のつくり方〜」を見た。ぼくの参加した上映会にはコスタリカ通でもあるジャーナリスト・伊藤千尋さんのトークがついていた。ここで紹介された内容が素晴らしく面白かったのでシェアさせて頂きます!(キリッ)
コスタリカではなんと小学生でも違憲訴訟ができるという。小学校に入学して真っ先に習うのは、「人は誰でもコスタリカに生まれた以上、愛される権利をもっている。」ということ。これは表現が違うだけで本質としては基本的人権の話だ。そして、ここから先が本気の人権大国・コスタリカの真骨頂。
「だから、もし、あなたが愛されていると感じなかったら、国や政府を訴えて変えることができる。」と小学生に教え、手段として「違憲訴訟」のノウハウまで授ける。その結果、子どもたちはとても素直に違憲訴訟を起こす(笑)。
伊藤さんはそう聞いて、真偽を確かめるべくコスタリカの最高裁に出向いた。
「小学生が違憲訴訟を起こすって聞いたんですけど、本当ですか?」
「もちろんです。こないだのケースは、小学校近くの産廃業者が出したゴミの悪臭が風に乗って学校まで流れてくる。それが臭くてとても授業に集中できないというので子どもたちが業者を相手取って違憲訴訟を起こしたってのがありました。」
「ゴミが臭いだけで訴えられるんですか?」
「そのことによって子どもたちの学習する権利が侵害されたというのがポイントなんです。」
「なるほど。ほかにありませんか?」
「校長先生が校庭に車を停めたら、校庭が狭くなったというので、子どもたちが校長を訴えたこともありますよ。」
「車の停め方で?」
「いや、そのことによって子どもたちの遊ぶ権利が侵害されたことが憲法違反に当たるんです。」
「なるほど。」
「高齢者のケースはありますか?」
「ありますよ。あるおじいさんが薬局に行ったら持病の薬が置いてなかった。そこでおじいさんは違憲訴訟をおこして薬局を訴えた。」
「薬がなかったくらいで?」
「もう判決もでています。その判決文にはこう書いてある。『このおじいさんに薬がなければ健康で文化的な生活が維持できない。したがって、明白な憲法違反である。』」
これは日本国憲法で言うところの第25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」というのと同じ。沖縄や福島を見ればわかるように日本では当たり前に侵害されているけど、放置プレイ。それを放っておかないどころか至れり尽くせりで丁寧に面倒見るコスタリカ。同じ平和憲法を持っていながらこの違いはなんだろうか。
この後の徹底ぶりはもはやお笑いの領域。いや、これが純粋ということなのかもしれない。
『この薬局はこのおじいさんがいつ来てもいいように24時間365日、常にこの薬を常備しておきなさい。』
さらにどこまでも突き抜ける判決文。
『このおじいさんはコスタリカ中を旅行するかもしれない。したがってコスタリカ中の全ての薬局にこのおじいさんの薬が常時置かれるように国は薬事行政をしっかりやること』
コスタリカは一人の幸福のためにここまでやる。いったん憲法に書かれた文言は社会で実現されていなければいけないという理想をこの国では真摯に実践している。
小学生の違憲訴訟について「お金はどうするんだろう?」と疑問の湧いた伊藤さん、またも訊いてみた。
「誰でも違憲訴訟を起こせるっていいますけど、費用はどうしてるんですか?」
「ふつうの裁判、自分の利益にかかわる裁判は費用がかかります。でも違憲訴訟は社会の公益のためにやる裁判だから個人が払う必要ないんです。税金でまかないますよ。」
いやー、すばらしい!さすが。
「お金のことはいいとして、訴状ってあるじゃないですか?まさか小学生が自分で書けないでしょう?どうするんですか?」
「そんなのテキトーでいいんです。」
「テキトーって(笑)?」
「今まで一番テキトーだった例は、持っていたビール瓶のラベルを剥がしてそこにチョロチョロっと(笑)」
「そんなもんでいいんですか!?正式な書類とか必要ないんですか?」
「いりません。ついこないだなんて買い物帰りにフランスパンをくるんでいた紙をちぎって、それに書いて出した主婦がいましたよ(笑)」
「そこまでテキトーにしなくてもいいんじゃないんですか(笑)!?やる方もやる方だけど…」
「必要事項が書かれているかどうかが問題なんです。」
「なにが必要なんですか?」
「名前、連絡先、何が不満か、これだけ。」
「だから先のケースだと、名前、電話、『校長が変なところに車停めて遊ぶスペースが少なくなった。』以上。これぐらい小学生でも書ける。これで訴訟になるんです。」
「それにしても年間2万件もあったら、ようさばけないでしょ?」
「んなことないです。一件あたり平均3ヶ月。どんなに長くても一年半で解決してます。この窓口の後ろ側には弁護士を常時60人待機させてる。次々持ち込まれる訴えを60人が精査して即断していく。
コスタリカでは最高裁の憲法裁判の窓口は365日24時間開いている。そのぐらい違憲訴訟というものを重視している。その数は年間2万件。毎年2万の声が社会の現状と憲法との矛盾を訴える。そうしてみんなの力で社会が憲法の理想に近づくように絶えず努力する。そのことに国民が責任を持っている。
日本であれば憲法の説く理想と現実は違っていて当たり前。「まあこんなもんだろ。なにせ“本音と建前”のお国柄だし、世の中ってそんなきれいごとだけでまわらないから」などと、その違いっぷりに慣れていないだろうか。選挙の「一票の格差」も長く違憲状態と言われながら、結果が無効にならずに政治はしれっと続いている。憲法を守らせるための司法が機能していないし、そのことに国民が怒らない。
一人一人が幸福に暮らすために国が純粋に運営される時、国民もその共同体について純粋な責任感を持つようになるのかもしれない。純粋さの循環が起きるのだろうか。だってそんな素晴らしい国の状態を維持、向上させたいし、後の世代に引き継ぎたくなるから。コスタリカでは内戦で子どもがライフルを構えていた時もあったのだ。
2003年にブッシュがイラク戦争を起こした時、当時のコスタリカ大統領も圧力に屈して賛成した。この時大学生だったロベルト・サモラは周囲の反対を押し切って一人で違憲訴訟を起こした。
「平和憲法をもっていながらイラク戦争を支持するのは明らかに違憲だ。」
一年半後、彼の全面勝利が確定し、政府は一市民の訴えによって有史連合からの離脱を命じられた。そこで彼が思ったのは、「憲法が危機に陥った時に国民は戦う義務がある。」ということ。
同じ平和憲法でも日本とコスタリカでは何が違うだろうか?
日本ではお飾りだが、コスタリカでは毎日の暮らしの中で“国の理性”として実践されていること。そうした国づくりに国民が主体的に参加していることが大きく違う点だ。また、権力が腐敗しないような工夫が制度設計に組み込まれているところ。首相や議員が連続で当選できないとか、国会議員が議会を休んだ分だけ給料から引かれるとか。
国が一個人の幸福に徹底して責任をもつこと、また個人が国に「理性的であれ」と求め続けること。これが表裏一体。それが国民の幸福に繋がり、その幸福がその仕組みを維持し、推進する原動力になるという良い循環ができている。そんなことが70年もの間行なわれている国があるということに希望を感じる。一つの国でできたらきっと他の国でもできるはずだ。
それではみなさん、プラ・ヴィダ!!
それではみなさん、プラ・ヴィダ!!