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世界平和なう:歯磨きするように社会を変えよう

2018/05/10(木)
おしどりマコ&ケンが5月3日の憲法集会で行なったスピーチがすばらしいので要旨を抜粋し編集した。
 
◎原子力も独裁者も生みの親は同じ
原発事故があって世の中がひどくなったんじゃなくて、ずっとひどい世の中だったのを私が知らなかっただけだった。原発事故が起こるまで週刊金曜日のことを週刊フライデーの正式名称だと思っていたぐらい無知だったと語るマコ。
 
原発事故の記者会見に欠かさず出席し、取材を続けるうちにドイツで行なわれる会議や省庁から呼ばれて日本の状況について説明するような機会が増えて来た。そうした中でドイツの国立放射線防護庁の人から「原子力も独裁者も生みの親は同じだ。」と言われた。
その意味は、ドイツはワイマール憲法、民主主義のもとでナチスドイツを生み出した。つまり、どんな立派な憲法があろうが民主主義国家だろうが、愚かな市民であれば愚かな代表を選ぶということ。だから原子力についても政治家や科学者や権力者の言う事を鵜呑みにするのではなく、愚かな市民であっては駄目でそれぞれが勉強して行動していかなければいけない。
 
◎人道にもとる避難基準を受け入れたのは私たち自身
福島で被災地の避難解除基準が年間20ミリシーベルトになった時に、ドイツの放射線防護庁の人に、
「その基準はドイツ国民なら到底受け入れないだろう。日本人は受け入れたのか?」
と訊かれたマコは、
「私はそれまで政治家や権力者や研究者がその基準を決めたと思っていたけれど、最終的に受け入れて決めたのは私たち自身だったんだ」と気づいた。
 
◎全ての命と権利が踏みにじられないための戦いがしたい
原発事故で私はへこんだけれど、一番へこんだのは去年や一昨年だった。「安倍政権を倒すために反対派が団結しなければ駄目だ」ということで反対派の中でいろんな人が踏みにじられるのを私は見ちゃったんです。そしたらそれは「北朝鮮や中国が攻めて来るから日本は団結しないと駄目だ」と言いながらいろんな人を踏みにじる政治をしている安倍さんと同じじゃないかと思いました。そのことがあってから、いろんなものと戦おうと決意したんですけど、
「私が戦いたいのは安倍政権みたいなちっぽけなものじゃない。人間に限らず全ての命が、全ての権利が踏みにじられないための戦いをしていきたい」
と思ったんです。
マコは「9条の会」のパロディーで「97条の会」をパロディで主宰している。
 
日本国憲法 第九十七条
「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」
 
◎自由のための戦いをサボった私たちのせいで自由がなくなる
この条文を読んだ時に私は、思ったんです。
「安倍政権がこれを奪うんじゃなくて、自由獲得の戦いをさぼっていた私たちのせいで、いや、私のせいで基本的人権を失うんだ」
って。日本国憲法には、基本的人権として、幸福になる権利とか健康に生きる権利とか、知る権利、選挙にいく権利とかいっぱい書いてあります。
だけど、憲法に書いてあるからといって幸福に生きられるわけでもないし、健康に生きられるわけでもない。実際にはそうした権利を踏みにじられる場面はたくさんあります。でも憲法に書かれているからこそ、その紙に書かれている言葉を私たちひとりひとりが生活の中で大切にして生きていく事が「憲法を守る戦い」なんだと思う。
◎歯磨きするように日常の中で社会を変えていこう
日常を変えるために生きていきましょう。敵認定しないで味方を増やしていきましょう。歯磨きするように社会をかえていこう。半径5メートルからゲリラ活動をしていこう。たくさんできることはある。私は文房具屋のペンの試し書きでは必ず「脱原発」と書くようにしています。本屋で櫻井よしこさんの本が平積みになっていたら憲法9条の本を上に載せて回ります。田舎の本屋だと一週間ぐらいそのままのレイアウトです。暮らしの中でできることもたくさんあります。

終わり
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スピーチの中で「安倍さんのせいでなく、私たちのせい、いや、私のせいで」と自分の身に全て引き受ける姿勢が印象的だった。それこそ打倒安倍を叫び自身の責任を棚上げする人々に最も欠けている態度であり、その心のためにどこにいても自分の外に敵を探し、攻撃することになるのではないだろうか。
“革命”の最中に連合赤軍が内ゲバで仲間を虐殺したり、歴史上、革命の後には頻繁に大虐殺が起こったのも、格好の敵を前にして自らの悪から目を背けた結果であって、社会の悪と個人の悪は同じ根を持つのではないかと思った。
他者の中に悪を見るから内なる悪が見えないのか、内なる悪から目を逸らしたいがために他者の中に悪を探すのか、この二つの姿勢は互いの尻尾を噛んでいるウロボロスのように不可分のように思える。そのネガティブな環から抜け出るためには内に悪を、外に光を見続けなければならないのだろうけど、自我、自己愛を持つ人間がその生き方を求められているとは、何と絶妙にデザインされている世界なのだろうか。

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