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世界平和なう:正義の神は流血を好む

2017/12/01(金)
映画「実録・連合赤軍〜あさま山荘への道程〜」を見た。(Netflixにあり)最新の映画でなくてすみません。あさま山荘事件といえばクレーンで釣った鉄球を使って山荘を破壊して警官隊が突入したシーンが有名だが、この映画はそこに至るまでの連合赤軍内部のリンチ殺人に焦点が当てられている。
 
時は60年代〜70年代にかけての安保闘争で学生運動が過激さを増していた頃のこと。東大安田講堂を学生がバリケード封鎖して入試が行われなかったり、警官隊と学生たちとの衝突で死者が出たり、一度の逮捕者が数百人出たりとすさまじい義憤が若者達の間に渦巻いていた。今の日本からは全く想像できない熱過ぎる時代。
  
左翼組織と連携して過激化する一方の学生たちに業を煮やした警察が摘発を強化する中で、連合赤軍のメンバーは追跡を逃れて山岳地帯に籠り、共産主義革命闘争のための軍事訓練に明け暮れる。猟銃店を襲って武装し、さらに銀行強盗で逃走資金をゲットするという行動力。全ては資本主義に毒された社会を変革するという大義のためだから罪悪感もないらしい。正義の使者ってほんと怖い。
  
山小屋に籠ったメンバーたちは警察への徹底抗戦に備えて訓練しつつ思想的な訓練も受けるわけだが、ここでリーダーの男が頻繁に使う言葉に「総括と自己批判」というのがある。たとえば、重要なデモの時に現場に来なかったメンバーについて、他のメンバーが「○○は共産主義革命の何たるかをまるで理解していない。気持ちがたるんでいる。」などと批判する。批判された男は「革命戦士としてあるまじき行為だ。どう総括するんだ?自己批判しろ!」と迫られる。
ここでいう「総括と自己批判」とは「自分の至らないところを悔い改め、今後の改善策をメンバーたちに宣誓する」ぐらいの意味だ。はじめはぬるい返答でも済んでいたのが、山小屋生活が長引くに連れてリーダーの追及は激しさを増し、鉄拳制裁が加わる。いわゆる内ゲバだ。指摘される内容も「化粧をするとは何事だ」とか言葉尻をとらえて吊るし上げるようなただの口実になり、暴力もエスカレートして集団リンチが行われていく。
 
冬の山中でろくに喰わせずに縛ったまま外に放置して衰弱死させたり、殴る蹴るの暴行を加えるなどで死者は計12人に上り、その中には夫婦や恋人、兄弟で参加したメンバーの片割れが殺されたり、妊婦さえいた。生還したメンバーの一人は「何のために総括するのか誰にもよくわからなかった。それはリーダーの観念の世界のことだった。」と後に語っている。
 
総括から処刑への流れはリーダー格の人間に決定権があったものの、暴行に加わらなければ自分がターゲットになるため多数で総括対象者をリンチした。それは逃走を防ぐためでもあった。それにしても、一体なぜ同じ敵に向かって生死を共にするほど連帯した集団の中でこのような殺し合いをしなければならなかったのか。
 
彼らは対米追従の政権や腐敗した社会の権威に対して正義感からくる怒りを抱いている。相手は明らかに人道に外れていて自分たちには共産主義革命を実現するというこれ以上ないぐらい「正しい」大義がある。一旦正義の旗を掲げた者は自らを顧みることをしなくなる。抽象的で巨大な正義は草の根的運動ではなかなか実現しないので、ずっと自分の行動の全てを正当化してくれる。
一方で相手は社会の支配階級で具体的に動いており、いくらでも揚げ足がとれ、攻撃できる。自己愛のある人間という生き物が自分の心を客観視するのはただでさえ難しいけれど、このような状況ではなおのことそうなるだろう。自己愛の眼鏡は人が自身の内に見たくないものを外に映し出してくれる。憎んだり批判している間は自分の悪性を見つめなくて済むし、自分のことを素敵なだけの善人だと思ってる方が楽だから。このような現象は形を変えていろんなところで見受けられる。自分の心身の内部に調和を乱す要素があると考えるより、外にあるものが自分の健康を脅かしていると考える方が楽だし、具体的な対処法がすぐに見つかる。それに対処している間はこれまで通りの自分でいられるのだ。
 
もう随分長いこと続いている安倍批判をFBで見ていると、そこに吐き出される毒気に辟易する。繰り返し安倍総理の失態や公私混同ぶりをあげつらった投稿をする人、そこに罵詈雑言を書き込む人。これが匿名ユーザーの多いツイッターだともっとひどいのだろう。この毒気は本当に安倍総理によって生じたものなのだろうか。それとも、もともと彼らの中にあった同じような醜さが格好のターゲットに向けて映し出されているのかもしれない。
 
もしも連合赤軍のメンバーが山中に追い込まれず、警察に対して憎悪をぶつけ続けていたら、もしも外界と隔絶された環境に籠らなければ、あのような凄惨な内ゲバは起きなかっただろう。対象がいなくなった時に行き場を無くした怒りが近くにいる人間に向いた。まるで代わりの犠牲を探す魔物がリーダーの内に潜んでいたかのようだ。これは何も連合赤軍に限った話ではない。外で人助けばかりしてる人が家に帰ると伴侶に暴力を振るったり、ケンカばかりしているなどという話はよくある。
 
正しさには客観的基準がない。うちには二歳半の息子がいるがこの年でもぼくにしょっちゅう駄目出しをする。息子の意に沿わないことをすれば、「ダメ」、「ちがうよ」、「そうじゃない」と言われる。親の方も子どもが散らかしたり、自分たちが困るようなことをやろうとするとダメ出しをする(子が親の真似してるだけかw)。人にダメ出しをする基準は自意識が決める。
正義のやっかいなところはいくらでも恣意的な運用ができることだ。「イラクが大量破壊兵器を持っていて危険だ」という大義の元に起こされた湾岸戦争。世界のどこより大量破壊兵器を持っていて、どこよりも他国の政治や紛争に介入し、一般市民を巻き込む大量破壊、大量殺戮を行って来たのは他ならぬ米国なのに。
 
実際、連合赤軍のリーダーは総括の意味を訊かれた時、「それを考えるのが総括だろう!!」とキレた。そのくせ人の総括がぬるいと判断するや「総括になってない!」とキレる。観ている側としては、「じゃあ、総括の定義をはっきりして、うまく総括できるようにしてやれよ。もうただの罰ゲームじゃないか」と思うが、むしろそれが好都合だったのかもしれない。はっきり説明してみんなが正しい総括をしてしまったら自分の怒りを向ける先がなくなって困るから。そんなに激しい怒りを自分自身に向けたくはないから曖昧なままにしたのかもしれない。
 
文化大革命、ポルポトのクメール・ルージュによる虐殺など革命あるところに虐殺があるのは、自らの正しさへの確信と対象への否定が表裏一体になっているからだ。その確信が強いほど、相手の過ち(に見えるもの)が絶対悪としてくっきりと浮かび上がる。正義の鉄槌は自ずと激しさを増す。そこには自分が無意識に見逃した自身の過ちに対する良心の呵責や他所で溜め込んだ他者への憎悪まで上乗せされるかもしれない。が、正義の使者になぜ殺人が許されるのかというまっとうな疑問は「革命戦士になれなかったための敗北死だった」などとリーダーの様々な詭弁によって流されてしまう。
 
例えば、自分の身内を殺された人間が犯人に極刑を望むような場合もこのような心理が働くだろう。人殺しはほとんどの地域で絶対の悪であり、許せばコミュニティや種の存続に関わる重罪だ。まして特に残虐なケースや大勢を殺した者は社会の憎悪を一身に浴びて被害者や大衆の「正しい怒り」を汲んだ極刑が下される。殺人を断罪する側が殺人をすることの滑稽さといったらないのだけど、秩序を守る為のそれは「正しい殺人」として正当化される。
 
それにしても、どうして誰も止められなかったのだろう。リーダー以外のメンバーも最初はおずおずと、慣れると易々とリンチに加担していくのだが、最初から最後までみんながリーダー格と同じ意思を持っていた訳ではない。絶対権力を握っているリーダーに楯突いて自分が殺されることを恐れたのはもちろんあるだろうが、何人かで結託すれば反抗もできただろう。彼らは次は自分かもしれないと戦々恐々としながら他のメンバーが吊るし上げられている時には止めず、殺しに加担した。脱走した者は何人もいたが。
映画の中では終盤で「勇気がなかったんだよ!」というメンバーの叫びが12人リンチ殺人への回答のように繰り返されている。これを現場から生還した元メンバーは「自分たちはやれと言われれば銀行強盗でも何でもやった。『勇気がなくて言いたい事が言えなかった』という締め方は安易すぎる」というようなクレームをつけている。これは見当違いな批判だ。彼らに足りなかったのはリーダーに逆らう勇気のことではなく、内なる悪を直視する勇気のことだったのではないだろうか。そんなこともわからないようではまだまだ総括が足りないし、革命戦士としては到底認められな……あっ!
 
  
※ヨーロッパには「軍神よりも正義の神が流血を好む」という格言があるそうです。
 
※自由意志を放棄して周りに流されるという人間の悪性に興味がある方には、アースキャラバン呼びかけ人・遠藤喨及さんの「ニーチェのように、ただ一人歩め」という深い考察がありますのでこちらをお読み下さい。
  
「※12章から成り立つ、全48項目のとても長い読みものです。一般公開しますが、人生の真実に生きることに関心がある方のみご覧ください。」とのことです。

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