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世界平和なう:最低最悪の自分に出逢う
2018/05/29(火)
【ざっくり書くと】
・保身のためのシラキリって流行ってるけど、それってほんとに自分のためになってんのかいな?
・最低最悪の自分に出逢うっていいこともあるんよ。
・痛みの自覚を通して他者への共感が目覚め、より広い心の世界が開けることがあるかも。
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◎日本の新しいお家芸“シラキリ”
最近だとアメフトの反則タックル事件における監督、コーチの会見を見てもわかるように、日本のお家芸としてハラキリならぬシラキリが定着しそうだ。どれだけ状況証拠が揃って黒に近くても決定的な証拠がない限り、シラキリを貫くことで限りなく黒に近いグレーを狙うのが定石になっている感がある。少しでも世間体を保ち、諸々の不利益を被るのを避ける為にそうするのだろう。
とかく世間では、傷のないキャリアであったり、失敗やミスを回避するのを尊ぶ傾向があるように感じるけれど、本当にそれが人が幸福になる道なのだろうかと疑う気持ちがぼくにはある。エリートコースをひた走った勝ち組のはずの人間が後でとんでもない過ちを犯して転落の一途を辿るような例は珍しくない。してみると、誰しも持っている自分の影の部分を認識することは存外大切なことなのではないだろうか。そういう観点から言えば、ごく若いうちにグレた人たちが意外と堅実な人生を歩むこともままあり、人生の幸福と世間体とのギャップというのもなかなか興味深いテーマだと思う。
◎堕ちる道を堕ちきって自分自身に出逢う
作家・坂口安吾だって「堕落論」の中でこう書いているではないか。
「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。」
個人的な体験をもとに言えば、最低最悪の自分に出会うのは、満更ネガティブな事とも思えない。これまで最も救われ、癒されたのはその最低最悪の自分に出会ったことがきっかけだったからだ。長くなるのではしょるけれど、ぼくはその時、生まれてこの方こんなに自分自身に失望したことはないというぐらい自分自身の暗部を覗き込んでいた。それまでは必死で見ないようにしていた自分自身の身勝手さ、不甲斐なさ、狡猾さ、意気地なさ、などありとあらゆる影の部分が一挙に白日のもとに照らし出されていた。
始めは、鬱屈、荒れる、酩酊する、ふて寝、いろんな形で無意識に抵抗したけれど無駄だった。ほんとにつらかった。死のうなんて考えたことはこれまで一度もないけれど、この時ばかりはこんな最低な自分がこれからどうやって生きていけばいいのか見当もつかず、目の前が真っ暗になった。それでも、認めないわけにはいかなかった。間違いなく、ここに最低最悪の人間がいる、と。そう完全敗北宣言をして寝た翌朝のことだった。
◎自分を離れることによる絶対的安堵
目が覚めると、昨日までの憂鬱が嘘のようにとても安らかな気分だった。何とも言えない安堵感があって緊張、焦り、恐れといった一切のネガティブな感情が跡形もなく消え去っていた。ついでに考えるということも全くできなくなっていた。いつものように出勤しなければいけないことも忘れてしばらくぼーっとしていた。
やがて起きだして身支度を済ませ、外に出たのだけれど、なんだか妙な感覚がある。自分の意識が実体から10センチぐらい後ろにずれてはみ出ているような違和感がある。幽体離脱した人ってこういう感じなのかもしれない。自分という感覚がない。客観的に見れば、出勤途中の普通の人に見えたはずだ。確かに脚を動かしていつもと変わらぬように歩いている。改札があればカードをかざす、階段を登る、というように習慣的な動作を難なくこなしているのに少しも自分でやっている感覚がない。誰かがそれをやってくれていて自分はすぐ後ろに背後霊のようについてまわり、ただ眺めている。観客になってしまったかのように。では何の感覚もないのかというとそうではなくて、ものすごい安堵感を伴う温かい繭に包まれているような感じが切れ目なく続いている。絶対の調和の中に居続けている。これは一体なんなのだろうと思いながらも頭で考えることができない。
◎憂鬱な行進
通勤コースの途中に、新しく出来たターミナル駅での乗り換えがあった。これがほんとに長い。後から無理矢理地下通路を通しているのでものすごい距離を歩く。1km以上あるような長い地下道を歩かなければいけない。その進行方向が大方の通勤客と逆で下り方向に歩くことになっていた。何百人とか千人とかの通勤客たちが向かってくる中を通り抜けていくのだけど、これが毎日しんどかった。
とにかくみんな表情がひたすら暗い。「あー、今日も仕事か」とか「あの上司に会うのか」とかそんなことを考えてるのかどうなのか知らないけど、面白くもなさそうに、これから始まる一日に備えて表情が固い。たまに思い出し笑いなんかしている人がいれば、こっちまで救われたような気がしたものだ。月曜の朝がとくにひどくて、もう長い葬列か敗残兵の退却行進に出逢ったような気分だった。だけど、きっとそれらの憂い顔は自分自身の姿でもあったはずだ。反対側から見たら、その人達もぼくのことを「あいつ暗い顔してるな」って思っていたかもしれない。
◎湧き上がる共感
その朝はそんな見慣れているはずの一団とすれ違う時、一人一人をハグして抱きしめたくなるような愛おしさを感じた。人のことを気にかけている余裕は皆無のどん底気分だったはずなのに、なぜか一夜明けた今、見知らぬ多くの人達の苦しみへの無条件の共感が沸き上がって来たのだった。あたかも彼らの痛み、苦しみが自分の心を通り抜けていくような感じだった。歩きながら泣けて来た。何か自分にできることはないだろうかと思った。
そんな状態が一週間ぐらい続いた。やがてふだんの自分に戻った時、どうにかしてこの感覚を人に伝えたいと思った。それが何なのかどうやったら伝えられるのかはよく分からなかったけれど。そのことがあって自分がどう変わったのか。相変わらず最低最悪の自分は心の中にいる。常に。ただ、ことあるごとに顔を覗かせる“それ”に自覚的にはなったかもしれない。なにせ気づかなければ変えようもないのだ。そして、一番大きい変化は信仰の根っこみたいなものができたことだろうか。だって、その体感は自分が自力で得たものでは到底なかったから。向こうから来てくれたという感じ。つまり他力だった。信じるとか信じないとかではなくて、最高に心地よいものを体感したのだから当然そっちに向かって歩いていくことになる。
◎最低最悪の自分を通して大いなる光に出逢う
哲学者の中村雄二郎さんの「宗教とは何か〜とくに日本人にとって〜」という著書の中に「逆光の存在論」という記述がある。それは、
「宗教的な意識の出発点である〈虚無の自覚〉はどんな時に生ずるのか、ということを考えると、それは人間の生命力が自ら発するエネルギーを失い、自己が逆光をあびるときに生じる」
というものだ。
人は余裕がある時には自分が放つ光によって周りを照らしている。それが大病や精神的落ち込み、大失態、愛する人の死などによって危機的状況に置かれ、自身の光が風前の灯火の如く弱まった時、そこで初めてずっと自分を照らしてくれていた大いなる光に出逢うということなのかもしれない。
まだの方は是非いつか最低最悪の自分に出会えますように。そのためにはまず脱シラキリを。