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世界平和なう:生きること、活かすこと

2018/06/26(火)
犬を飼っている。推定12歳の紀州犬のメス犬、名をネルという。推定というのはワイフが11年前に拾った犬なので正確な年がわからないのだ。
ネルはとても控えめな犬だ。飼い主に吠えて自己主張することが一切ない。腹が減ったり散歩に行きたければ、上目遣いにじっと見つめるか、生活導線上にわざと横たわって静かにアピール。
 
ところがこの淑女、相手が犬になると豹変して「殺すぞ!」と言わんばかりの勢いで猛烈に吠え、背筋の毛を逆立てて飛びかかろうとする。たとえ相手がティーカップトイプードルであっても全力で行く。ヤクザの鉄砲玉みたいな一面もあるので、なかなか飼うのに骨が折れる犬だけれど、飼い始めの苦労はひとしおだったとワイフは語る。
ネルを拾った頃、ワイフは心身ともに疲れ切っていたという。仕事は忙しいし、パートナーとはうまくいっていなかった。パートナーは家のことを一切やってくれないので、とても犬を飼う余裕などなかった。それなのに、ある雨の降る夜、帰宅途中に出逢ってしまったのだという。
 
車で海岸沿いの道を走っていると、三頭の犬が対向車線に姿をあらわした。たまに後ろを振り返りながら車から追い立てられるようにして走っている。前を塞ぐ犬たちに痺れを切らした車が次々に追い抜いて行く。このままでは犬たちが車に轢かれかれてしまうと心配したワイフは車を路肩に停めて、犬たちを追いかけた。なんとか捕まえようとするのだが、タイミングよく食べ物を持っているわけでもないし、犬たちは警戒心が強くて近寄らせてくれない。やむなくその場は諦めて家に帰った。
  
翌朝、隣の家から聞こえる犬の鳴き声で目が覚めた。窓から隣家を見ると、昨日見かけた犬の一頭が隣の飼い犬と遊んでいるではないか。ワイフは昨日の二の舞にならぬように一計を案じて、近所に住む女友達に助けを求めた。彼女はワイフと同じようにパートナーが家のことを一切やらないので植木仕事や大工仕事まで全てを自分でできるようになってしまったタフな人だった。山奥に入ってツタをとってきて籠を作ったりもするような。彼女の発案によりロープで輪を作り、カウボーイ風に犬の頭めがけて放った。何度かやった末に見事、首にロープをひっかけると、たぐり寄せてようやく捕まえることができた。
 
家に連れ帰ってドロドロに汚れた体を洗ってやると、茶色い犬だと思っていたのに真っ白でふわふわの見違えるような姿が。それからが苦労の連続だった。家の隅でガタガタ震えているネルに自分には敵意がないことを伝え、エサを食べてもらうだけでも相当に根気が必要だった。前の飼い主にどんな扱いを受けていたのだろうと思ったそうな。当時、ソフトバンクのお父さん(北海道犬)のCMが流行った影響で白い犬がよく売れたらしいが、同じ白い犬といっても紀州犬の場合、優秀な雄は猪を倒すとも言われる獰猛さだから持て余したブリーダーにでも捨てられたのかもしれない。
 
慣れたら慣れたで遊びたい盛りの子犬のこと、甘噛みの加減も知らず手や脚を噛んでくるのだが、まだ未発達の細い歯が食い込んで出血することはしょっちゅうでその度にネルに噛み付いては「強く噛むと痛いんだよ!」と母犬になったつもりで鳴いて許しを乞うまで離さなかったという。家でも庭でもウンコを頑なにしないので、仕事と家事に加えて朝晩の散歩が必須となり、体力的にはしんどいものの、かえって規則正しい生活に。そうして献身的にネルに愛情を注ぎ、触れ合う中で自身も元気に幸せになっていったというから人間は不思議だ。
愛情が足りなければ、まずは他から与えられることでしか満たされないようにも思える。実際、幼児期に愛情に乏しい暮らしを送った人についてはそういうことも言えるだろう。けれども、愛情を与えなければいけない状況に置かれて初めて、眠っていた尊い心が掘り起こされ、与える中で全ての命の源につながり充足するということもある。
与えることと与えられることの関係。
生きることと自分を他の為に活かすことの関係。
これまでいろんな人にこのエピソードを話して来たのは、この出来事の中に人が幸福になることのヒント、厳しくも愛に溢れた出逢いというギフト、そういった人生の秘密が凝縮されているように感じられるからだ。
 
じっと注がれる視線を感じて振り返るとネルが物陰から見つめている。そろそろ夕方の散歩に行かなければ…。

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