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世界平和なう:正しいウヒアハ?

2018/07/11(水)
子供に絵本を読み聞かせる親たちの集いがあるというので参加した時のこと。
公民館に集まっていたのはママさんたちとその子供たち(保育園児)、それに先生。読み聞かせの先生ってどういう人なんだろう?と思ったら、長いこと小学校などで絵本の読み聞かせや素話(覚えた話を何も見ないで語ること)をしている人なのだという。
   
先生は小学校に乗り込んで読み聞かせが子供たちに与える良い影響を力説し、一つのクラスで試験的に行なうことから始め、それが教師たちに受けてついには全クラスで月一の読み聞かせを開くに至ったこともあるという。その信念の強さ、理想の実現への努力を惜しまないバイタリティに敬服した。
先生の傍らでママさんたちが一人ずつ子供たちに読み聞かせを始める。
  
先生「今日は何をやるの?」
母親「『11匹のねこ ふくろのなか』をやります。」
先生「そうね。だいぶ力もついてきたし、そろそろいいかもね。」
母親「はい。よろしくお願いします。」
 
なんだか落語家の師匠と弟子みたいな雰囲気。
若干緊張した面持ちのお母さんが絵本の表紙を表裏見開きにして子供たちに見せてから読み始めた。滑舌よく、大きな声で。子供たちはおとなしく体育座りをして聞いている。
ちなみにこの話はウヒアハという腕力は強いがちょっと間抜けな怪物に捕らえられた猫達が知恵と力を合わせて脱走するというストーリー。 
終わると、最後にもう一度表紙の表裏を見せてから「おしまい」。
 
みんなが拍手し終わると、先生の講評が始まった。
「声も大きくて、聞き取りやすかったし、良かったと思います。ただ自分が文字を読むのに集中して子供たちを見るのが少なかったのが気になったわね。何度も読めば覚えちゃうからそこは慣れよね」
「はい、頑張ります。」
「それからウヒアハの読み方なんだけど、ウヒアハってちょっと間抜けな怪物だからウヒアハ(棒読み)じゃなくてウッヒィアハ(派手な抑揚)ぐらいの方がいいわね。ちょっと言ってみて」
「…ウッヒアハ」
「恥ずかしがらないで。もっと大胆に」
「はい。ウッヒィアハ」
「そうね。そのぐらいでいいわ」
ぼくはとてもマジメそうなそのママさんが指導されているのを見ながら、待てよ、と思った。だって本文の読み方じゃないんだよ、名前なんだよ、「ウヒアハ」って…。
単純にみんなで絵本を読み聞かせるだけの集いかと思って参加したのだけど、どうもそうではなくて、目的は先生の指導の下で“正しい読み聞かせ”を習得することにあるのだとわかってきた。
 
次のママさんが読み聞かせを始めると、おとなしく聞けない小学生男子たちと一緒に遊ぶことにした。正直言ってとても退屈だったのだ。園児たちはそのままおとなしく聞いていた。しばらくして外で鬼ごっこをしていると、ママさんの一人がぼくを呼びに来た。
 
「婿養子さん、先生の素話が始まるので是非!」
「あ、はい。すぐ行きます(しぶしぶ)。」
先生はもう何百回もやった話なのだろう。子供達一人一人に語りかけるように目を見ながら、「まんが日本昔話」に出てくるような民話を始めた。そして情感豊かに淀みなく語り終えた。
「おしまい」
一同拍手
「やっぱり素話の方が子供たちの顔見れるし、こっちも集中できるから子供たちも引きつけられるわよね。騒々しい教室でもこれやりだすとさーっと静かになるのよ。」
と先生は言った。
 
そんなこんなで終わった。
ぼくも初めて子育てをしているので、子供のために何が良いのか、と考え込んだりすることもある。親が子のために良かれと思ってすることが子供にとって本当に良い事なのかどうか、その判断に迷うことはしばしばある。子供は自分にとって何が良いかがわからない、と親は思いがちだ。子供が衝動的で長いスパンでものを考えることができないからだろうか。
その一方で親は本人よりも熱心に情報を集め、持てる知識を総動員して子供の最善を考える。それだけに誰よりも我が子にとっての最善をわかっている、と思い込んでいる。いや、逆にいくら考えても自信がないから、読み聞かせ一つとっても先生や名作の力にすがるのかもしれない。
実際、思い込みのフタを開けて見ると、自分が幼少期に感じていた不満をもとに「自分はこうだったからそんな思いをしないで済むようにこの子にはこうしてあげよう」なんて考えていたりする。でも子供って自分じゃないんだから自分を基準にして考え始める時点でちぐはぐなことになりはしまいか。
 
子供はどんなに姿形が似ていても親とは別の人間だ。そこが大前提なのだから、考える自分基準ではなく、相手はどう感じているのか、それを感じ取ろうとするところにこそウェイトを置かなければいけないんじゃないだろうか。
 
今どんな気分だろうか?
楽しんでいるだろうか?
嫌がっていないだろうか?
親のために無理していないだろうか?
 
これは相手が大人でも同じことが言えそうだ。自分を入れずに相手の心を感じ取ろうとすること。子供の場合には大人が圧倒的に優位に立ち、如何様にもコントロールできるがゆえに一層その感度を研ぎすませなければいけないはずだ。教育する側が、躾の名の下に子供に自分たちの都合を押し付けるのはよくあることだし。
子供たちがその感受性を育て、可能性を開いて生きていくのを助けるものはなんだろう?
逆にそれを邪魔するのはなんだろう? 
そんなことを考えていた翌日、ばったり読み聞かせの場にいた女の子に出くわした。ママさんは近くにいなかった。

「こんにちは。キミ昨日さ、読み聞かせのとこにいたよね?」
「うん。」
「読み聞かせ、どうだった?」
「つまんなかった〜」
「だよね〜(爆笑)」  
子供は大人が思うよりも親に気を使っている。だから退屈な時も親の前ではいい子にして親の顔を立てて集中して聞いているふりだってする。実際、そのように仕込まれてもいる。求められる子供を演じる事が親を落胆させず、怒らせない、“いいこと”なのだと。
  
そういえば、親や先生が子供たちに「楽しかった?」と聞くのを一度も見なかった。子供たちが楽しそうにしているかを観察する気配も感じなかった。ただ自分たちの読み聞かせがどうあるべきか、どうしたらそれを磨くことができるのかに熱心だったように感じた。
生物学者のレイチェル・カーソンは「センス・オブ・ワンダー」の中でこう言っている。
  
「わたしは、こどもにとっても、どのようにして子どもを教育すべきか頭をなやませている親にとっても、『知る』ことは『感じる』ことの半分も重要ではないと固く信じています。」
 
・レイチェル・カーソン…(1907ー1964)は、アメリカに生まれ、1960年代に環境問題を告発した生物学者。農薬で利用されている化学物質の危険性を取り上げた著書『沈黙の春』は、アメリカにおいて半年間で50万部も売り上げ、後のアースデイや1972年の国連人間環境会議のきっかけとなり、環境問題そのものに人々の目を向けさせ、環境保護運動の始まりとなった。
 
・センス・オブ・ワンダー…神秘さや不思議さに目を見はる感性。

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