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世界平和なう:素敵すぎてすみません
2019/01/21(月)
最近、友達が引っ越したんですけど、そこの大家さんがすごい。
その大家さんは父親の遺産として不動産を相続した人で、引っ越したNちゃんは大家さんの父親と知り合いだったという。契約が決まり、荷物など運び入れる段になって大家さんに会った。
「お父様には生前お世話になりまして…」
Nちゃんが言った途端、彼の表情が険しくなった。
「私は父のことが心底嫌いでした。だから父のことをよく言う人、父と親交のあった人はもちろん、父の世話になったという人も、父の話をする人もみんな大嫌いです。」
Nちゃんは口をあんぐり開けて言葉が継げなかったという。どうもその父親という人がとても癖のある人だったそうで、家庭を顧みず仕事ばかりしていて家族との関係がよくなかったという背景があるらしい。でも、その憎い父の財産はちゃっかり相続してるんだけどね・・・。
また、料理上手のNちゃんが差し入れに隣の大家さんのところにお惣菜を数種類持参したところ、
「いつもこんなにちゃんと料理してるんですか?」
「ええ。暇はありますし、好きなもので」
「素敵ですね」
「ありがとうございます」
「その鉢植えも全部ご自分で世話されてるんですか?」
「そうです。こういうのも好きなんです。」
Nちゃんは大小様々の観葉植物を見せた。大家さんはちょっと表情を曇らせた。
「ちょっと素敵過ぎますね。」
Nちゃんは大家さんが何を言ってるのかわからなかった。「素敵すぎる」とはどういうことなのか?それは大家さんとコミュニケーションを重ねる内にだんだんわかってきた。つまり、彼にとって借り手は一段格下の存在であり、決して「素敵な暮らしぶりだな」とか「豊かな生活だな」とか「楽しそうだな」などと彼に羨ましく感じさせることがあってはいけないようなのだ。「素敵すぎる」は「借り手にしては分不相応に素敵だ」という意味なのだった。ドラえもんの中でジャイアンが「のび太のくせに生意気だ」と言うのと変わらない。
「いつもこんなにちゃんと料理してるんですか?」
「ええ。暇はありますし、好きなもので」
「素敵ですね」
「ありがとうございます」
「その鉢植えも全部ご自分で世話されてるんですか?」
「そうです。こういうのも好きなんです。」
Nちゃんは大小様々の観葉植物を見せた。大家さんはちょっと表情を曇らせた。
「ちょっと素敵過ぎますね。」
Nちゃんは大家さんが何を言ってるのかわからなかった。「素敵すぎる」とはどういうことなのか?それは大家さんとコミュニケーションを重ねる内にだんだんわかってきた。つまり、彼にとって借り手は一段格下の存在であり、決して「素敵な暮らしぶりだな」とか「豊かな生活だな」とか「楽しそうだな」などと彼に羨ましく感じさせることがあってはいけないようなのだ。「素敵すぎる」は「借り手にしては分不相応に素敵だ」という意味なのだった。ドラえもんの中でジャイアンが「のび太のくせに生意気だ」と言うのと変わらない。
どうも大家さんにこういう人が多いという話をよく聞く。すごく横柄だったり、上下関係にこだわったり、ただでさえ貸し手にアドバンテージがある仕組みの中でさらに自分の優位を強調するような人。
普通に考えれば、不労所得があって暮らしに余裕があれば、心に余裕が生まれて人にも寛容に、親切になりそうなものだけどそうなるとは限らない。もちろん、大家さんがみんなそんなだとは思わないけど。社会的に人より優位な立場についたり、経済的に得をするということは、一般的に多くの人が羨む成功かもしれないけれど、そうした世間的な優位が人のエゴの増長を助けることはよくあるような気がする。
先の大家さんの場合、人の気持ちに配慮を欠くという点では、自分も忌み嫌っていた父親とそんなに変わらない人間になってしまったようにも思える。
ところで、先日、DAYS JAPANの広河隆一さんのパワハラ、セクハラが報じられたけれど、広河さんは権力者の横暴なんて大嫌いな人だったと思う。でも自分自身も職場や業界における権力者として似たようなことをしてしまった。
人を自分自身と切り離したところで悪として忌み嫌うことは、自分自身の内にも多かれ少なかれ確かにある同様の悪に対して目を閉ざすことでもある。自分の内に見なければ、他人の中に盛って見るのが人の性。外の他人を憎んでいる間に、身の内ではないことにして野放しにされている悪が奔放に育っていく。聖書の「汝の敵を愛せ」という教えは、自分にとって敵に思えるほど忌まわしく憎むべきものをこそ、自身の内に認め、受け入れよ。という意味なのではないだろうか。
普通に考えれば、不労所得があって暮らしに余裕があれば、心に余裕が生まれて人にも寛容に、親切になりそうなものだけどそうなるとは限らない。もちろん、大家さんがみんなそんなだとは思わないけど。社会的に人より優位な立場についたり、経済的に得をするということは、一般的に多くの人が羨む成功かもしれないけれど、そうした世間的な優位が人のエゴの増長を助けることはよくあるような気がする。
先の大家さんの場合、人の気持ちに配慮を欠くという点では、自分も忌み嫌っていた父親とそんなに変わらない人間になってしまったようにも思える。
ところで、先日、DAYS JAPANの広河隆一さんのパワハラ、セクハラが報じられたけれど、広河さんは権力者の横暴なんて大嫌いな人だったと思う。でも自分自身も職場や業界における権力者として似たようなことをしてしまった。
人を自分自身と切り離したところで悪として忌み嫌うことは、自分自身の内にも多かれ少なかれ確かにある同様の悪に対して目を閉ざすことでもある。自分の内に見なければ、他人の中に盛って見るのが人の性。外の他人を憎んでいる間に、身の内ではないことにして野放しにされている悪が奔放に育っていく。聖書の「汝の敵を愛せ」という教えは、自分にとって敵に思えるほど忌まわしく憎むべきものをこそ、自身の内に認め、受け入れよ。という意味なのではないだろうか。