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世界平和なう:加害者である前に被害者だった

2017/09/01(金)
「世界はもっと美しくなる 奈良少年刑務所詩集」を読んだ。本書は「空が青いから白をえらんだのです 奈良少年刑務所詩集」の続編。
 
著者の作家・寮美千子は引っ越しを機に明治の名レンガ建築として知られる奈良少年刑務所を訪れ、そこで教官と話したことがきっかけでこの刑務所の社会性涵養プログラムに関わることになる。その童話と詩作の授業の中で詠まれた"凶悪少年たち"の詩がここにまとめられている。
 
普通に考えたら殺人やレイプなど重罪を犯した凶悪少年と詩、これほど不似合いなものもないと思ってしまう。
 
けれども、そう感じるのは、「凶悪犯罪を犯す人間には純粋さがなく、凶悪な心しかない」という固定観念によるものだ。著者でさえ当初は殺人やレイプなどの重罪を犯した少年たちを恐れていた。
 
しかし、教官からこう言われる。
「彼らは加害者になる前に被害者だったんです。極度の貧困の中で親に虐待や育児放棄された子。発達障害のせいでいじめられた子。厳しい親から拷問のような躾けをされた子。親の過剰な期待を受けてがんばりすぎて心折れた子。心に深い傷を負っていない子はここには一人もいません。そのような子たちが事件を起こしてここに来るんです。ほんとうはみんな優しい心を持った子どもたちなんです。」
 
実際、ページをめくるたびに、彼らがこれまで感じて来た切なさ、苦しみを感じる。
また、詩と合わせて綴られる、授業中の仲間を気遣う様子や罪への後悔、前向きに生きようとする姿勢には胸がいっぱいになる。
  
中でも感動したのは、教官が彼らに向ける眼差しの深さと優しさだ。彼らは一人一人の詩の発表のたびにこんなふうに言う。
  
「弱さを出してくれてありがとう。」
  
「そんな言いにくいこと言ってくれてありがとうな。」
  
犯罪を犯した子たちの背後にあるものへの想像力があり、その可能性を信じているから一人の人間として敬意と共感を持って対面する。その心に向かうからこそ、「どんなことを言っても受け止めてもらえる」という安心感から少年達ものびのびと詩を発表できる。
  
実際、刑務所の旧態依然とした更生方法や刑務官を揶揄する詩を詠んだ少年もいた。
 
“右向け右、前にならえ 五指揃えろ これは何かの宗教か?…中略…オヤジのための整列で、オヤジのための行進で、なにがおれらの更生か?…略”
 
という具合だ。 ※オヤジ=刑務官
 
通常、施設の中では許されないこうした言葉も、詩の授業の中では教官にこんな受け止められ方をする。
 
「ほんま感動したわ。ほんまの本音を、勢いよく書いている。すごいわ。」
 
表現したくてもできなかった憤懣をぶちまけてくれた少年に、仲間たちからも絶賛の嵐。見事なガス抜きに。
  
なかなか言葉として発することができなかった切実な思いもたくさんある。
 
・幼い頃病弱だった子が自分の枕カバーとして使っていた何でもないタオルが唯一の心の支えだったという話。親や親族でないばかりか、人ではなくてタオル。
  
・仕事一筋で息子を名前で呼んだこともない父。ろくに会話もなかった父が警察の世話になった息子を引き取りにきた時、警察官が「息子さんを漢字一字でたとえると何ですか?」という妙な問いかけ。紙に書かれた漢字は「宝」。少年は泣いた。
 
・家族の愛を知らずに育った少年が言う。
「みんなが愛を与える人になれば、みんながもらえる人になれると思いました。」
  
少年たちは異口同音に「詩を作るまでこんなことは誰にも言えなかった」と言う。
  
切実すぎて、周りに理解を示す大人がおらず、ここの教官のような寛容さに包まれることがなかったせいで、言いたくても言えなかったのだ。それは本来、本人、彼らの親、近くにいた人たちだけの責任ではなくて、社会全体の、今を生きる全ての人たちの責任なのだ。
 
もし、彼らが刑務所に入らない善良な人々とは別種の“悪人”ならば、ここで詠まれた詩に共感することなどできるはずがない。
 
共感できるのは、誰しもこの世界で人の悪性から生じる暴力的なコミュニケーションによって多かれ少なかれ傷ついてきた経験があり、傷つけた経験もあるからだ。加害者と被害者は分かれていない。不変の属性でもない。
 
だからこそ、人と人との間を巡るエゴの連鎖の中で、尚も前を向いて歩き出そうとする少年たちの心に共感し、応援したくなるし、自分も頑張ろうと思える。それは人間共通の体験であり、使命だから。
 
・母の手のぬくもりについて詠んだ子が後になって打ち明ける。
 
「ぼくは赤ん坊の頃の二年だけしかお母さんと過ごしていません。だから顔も覚えていない。こんなお母さんだったらいいなと思って。」
 
・虐待を受け続けてきた少年が「やっと生きていていいんだと思えるようになった」と告白。
 
別の少年が言う。
 
「おれ、おまえのこと好きだから死ぬなよ」
  
少年たちは回を重ねる毎に心の鎧を脱ぎ、本音や弱音が詩に表れてくるという。それに伴って彼ら自身が楽になり、人と交流できるようになってくる。この変化がたった月1度の計6回、わずか半年の間の変化だというのに驚く。
 
・吃音のある子がマンホールを踏むか踏まないかで迷うというこだわりを詩に詠み、それを「自分もそんなんある」などと受け止めてもらったら、だんだん吃音が出なくなり、やがてすっかり治ってしまった。
 
・「朝吹く風が気持ちいい」とだけ詠んだひどいチック症の子。それを発表して受け止めてもらえただけで症状が消える。また出る。他の子の詩に感想を言い、それを受け止めてもらえたらまた症状が消えた。
 
なぜほんの数行の言葉を発し、それを認めてもらえることがこれほど彼らの心を癒すのだろう。それは彼らがその心を理解され、受け止めてもらうという経験が親子という最初の人間関係で足りなかったためせいかもしれない。ために、その後もうまく人とコミュニケーションがとれず、人を信じられず、自己の狭い檻の中で暮らしてきたからではないだろうか。それで他者を信じたり、優しくしたりできないのはむしろ当たり前の話だ。
  
誤解しないでほしい。親を責めているわけではない。彼らの親はどうやって育ったのだろう。その負の連鎖はどこまで遡ればいいのか、また、遡る方向は縦の時間軸だけでなく、同じ時間上で横にも広がるはずだ。つまり彼らも親たちも周りの人間からどう扱われて来たのか、ということだ。この社会は、少年達のような人々に優しいだろうか。その罪の背景を慮るだけの智慧があるだろうか。
 
もちろん、どんな境遇に育とうと凶悪犯罪に至らない人もいれば、恵まれた環境で育ちながら悪に走る者もいるから、生い立ちのことだけを持って人の罪を庇うことはできない。
 
が、著者も書いているように、「最善の更生とは加害者が幸福になること」という指摘は、的を得ている。このわずかな授業の時間に彼らの真心が顕われたように、人の善性が顕われるには望ましい条件というものもある。それが人格形成期に極端に足りなかった人と物心ともに恵まれた人とを同じ条件で裁くことはフェアではないと感じる。
 
人と人との間を巡っていくもの、それが人の心に与える影響を考慮するならば、罪の原因を個人に帰結させて社会から排除して懲らしめるというやり方はなんとも愚かな“更生方法”だと思わざるを得ない。
 
本書のタイトルの「世界はもっと美しくなる」は少年たちの一人が詠んだ詩の一節、
 
「人さえ獣であったなら 世界はもっと美しくなっていただろうに」
  
から採られた。
 
この詩集を読み終えて、改めて考える。
 
人が獣だったなら、つまり人間のような生き物がこの世に存在しなければ、本当に世界は今よりもっと美しいのだろうか、と。
 
確かに、この世界に蔓延して夥しい不幸を生み出す人間由来のもの、環境破壊、戦争、そういったものはなくなるだろう。
 
しかし、人がいなくなれば、
ずっと愛情を知らずに生きてきた命の発する叫びに何が涙するだろうか。
 
自分の利益を度外視して弱者に寄り添い、それを心底喜ぶ生き物がどこにいるだろう。
 
人はまた、時に絶望を覚えるほど愚かで罪深い悪性を抱えた存在でもある。それはしかし、絶対の悪ではない。この詩の授業の中で少年たちが体現したように他者への愛に通じ、人間全体の悪性をも直視する智慧に転化する可能性を秘めた種子でもある。
 
その種が花開き、実を結ぶかどうかは周りの人間の働きかけによるところも大きい。
 
彼らはこの詩集の中で身を持って示した。どんなネガティブなことも乗り越えて歩み続ける人の心の可能性を。

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