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世界平和なう:いわれなき苦しみを抱いて
2018/01/05(金)
ずいぶん昔の交通事故のことを思い出している。それはひどい事故だった。
高速道路を走行中の観光バスの運転席に対向車線で脱輪したトラックのタイヤが直撃したのだ。重さ100kgのタイヤと高速で正面衝突したのだから運転手のSさんはほぼ即死だった。脱輪した原因は、トラックを所有する産廃業者が法律で義務づけられた安全点検を運転手に一任しており、運転手がそれをなおざりにしていたことだった。これだけで十分痛ましい事故だけれど、続きがある。
Sさんはとても親切でサービス精神旺盛な人だったという。ただ運転するだけでなく、お客さんがより楽しめるようにルートをアレンジしなおしたり、雨の日には一人一人のお客さんに傘を差し出すなど気配りを欠かさず、後日利用者から感謝の手紙をもらうことも珍しくなかった。また、50名近いドライバーを抱える社内でもほんの数名しかいない師範運転手の資格を持っていて、入社以来無事故無違反、新人運転手の育成を担当するなど技能も確かなものだった。
その証拠に衝突後、バスはゆっくりと減速して自然に停車し、ガラスの破片などによりいくらかの負傷者は出たものの、乗客全員が命に別状なく助かった。また、Sさんが最善の対応をしたおかげで後続車を巻き込んで被害を拡大することもなかった。慌ててサイドブレーキに手を伸ばしたガイドさんはぐったりとシートに沈んだSさんの手がサイドブレーキを引き、足はフットブレーキを踏んでいるのを見て、Sさん自身が安全にバスを停めたことに驚いたという。
何よりもぼくが一番驚いたのはその日が彼の誕生日だったことだ。人の死に方については、悪人が苦しい死に方をしたり、善人が安らかに死ぬなんていう因果応報的な考えを持っていないけれど、神もあんまり悪趣味じゃないかと思ったのだ。きっとSさんについてよく知る人ほど「よりによってなんであの人がこんな目に!」と天を仰いだのではないだろうか。
なぜこの事故の話を思い出したかというと、旧約聖書のヨブ記について考えていて、「いわれなき苦しみ」に思いを巡らせたからだ。ヨブ記は「誰がどう見ても正しく生きている人間」であるヨブが主人公だ。天上でヨブを誇る神に対して、サタンが「ヨブの心を試してもいいか?」と持ちかけ、神が容認することからヨブがありとあらゆる災厄を受けることがエピソードの骨子になっている。ずっと苦しみに耐えていたヨブもとうとう最後には「なぜ自分がこのような苦しみを受けるのか?」と神に訴え、神との直接対話が始まるところがクライマックスだ。
ヨブ記にインスパイアされたドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」やダンテの「神曲」といった名だたる古典文学が今なお読み継がれていることからもわかるように、「人はなぜ人生の中でいわれなき苦しみを受けるのか?」という疑問は誰もが一度は心に抱く根源的な問いではないだろうか。
ぼくがこの事故を知ってからずっと忘れられず、折に触れて何度も思い出したのは、人間がこの世界で必ず受け取る二つのもの「いわれなき災厄」と、「崇高な使命」の融合がSさんの最期の瞬間に凝縮して象徴されているように感じられたせいかもしれない。
人はみな程度の差こそあれ、生きる中で全く自分のせいではない苦しみを受けるものだ。
・いじめられて自殺する子ども
・”正義の空爆”によって自分の幼な子を目の前で殺される母親
・乳児を抱えていただけなのにテロリストと誤認されて撃たれたパレスチナの母子
・政府が推奨したワクチンによって一生残る後遺症を負った子供
・ブラック企業で過労死したOL
・先天的に重い障害や疾病を持って生まれた人
・福島で無駄に被爆させられた人
・沖縄で米軍配備の犠牲になる人
・戦争で人を殺さざるを得なかった人
・レイプされたのに犯人が無罪放免された人
・プレハブ小屋で犬猫のように監禁されながら育ち、凍え死んだ人
これらの人々はもちろんのこと、冤罪によって死刑を受ける人はいわれなき災厄を受ける者の典型だろう。
叫びたし 寒満月の 割れるほど
※寒満月…冬の季語。空気の澄み切った寒空に輝く満月のこと。
これは冤罪死刑囚(1975年執行)の西武雄氏詠んだ有名な歌だ。みんなこの歌に詠まれたような遣り切れない気持ちで声の限り叫びたかっただろう。
「自分がいったい何をした? こんな仕打ちを受ける理由を教えてくれ!」
とヨブのように神に問い質したかったことだろう。いや、こうしている今も間違いなく世界中の至るところで多くの人が同じように叫びながら死に続けている。シリアで、ミャンマーで、パレスチナで。
いわれなき災厄について考える時、その「いわれなさ」の基準は何なのかと思う。それは「自分は“それ”を引き起こすような言動をしなかったし、心にも思わなかった。」ということだろう。つまり、人は「自分の心身をもってやったと自覚したこと」以外には責任を感じなくていいと思っているのではないだろうか。他人によって被害を受けている人や、誰が加害者かよくわからないままに苦しんでいる人、自分が無意識にやらかしたことについては「自分の責任ではないから知らない」と。
一方で人はいわれなき苦しみを受けるだけの存在なのだろうかとも思う。いや、誰一人として「受け専」の人はいないはずだ。人にいわれなき苦しみを与えた事のない人がいるだろうか。その責任はちゃんととっているのだろうか?
さらに、いわれなき不幸について訴える声はよく聞くけれど、いわれなき幸福に戸惑う人の話は滅多に聞かない。後者については傲慢にも“自分のおかげ”もしくは「天から自分個人へのご褒美」ということにして独占していないだろうか。
「これは完全に自分個人の言動と心的活動の結果もたらされたものだ」と断言できるような幸福がどれほどあるだろう。そもそも地球のような星があること、人がこの世に生を受けるというスタートからして全く自分の仕業ではない。人生の大前提からして「生きとし生けるものに等しく与えられたもの」ではないか。人は本来が時間も空間も命も全てをシェアしている生きものだ。だから「シェアしよう!」と呼びかけ続けなければいけないような状況を決して当たり前にしてはいけない。
運転手のSさんはその災難が自分のせいではない、などと思う暇も、ハンドルを切る暇もなかっただろう。全てはほんの一瞬の間の出来事だったに違いない。一瞬だからいかなる作為も入り込む余地がなく、その人が人生の中で表してきた瞬間瞬間の心=生き方が現れた。彼もまた私たちと同じ生身の人間だったと思う。それでもきっと、いわれなき苦しみを胸に抱き寄せて、自ら手にしたような幸福を人と分かち合おうとして生きた人ではなかっただろうか。誕生日に亡くなったことは「この人を見よ」という神の立てたフラグだったように思えなくもない。合掌。