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世界平和なう:No!と言った日本人(連載2) 抵抗のリレー
2018/11/06(火)
〈前回のまとめ〉
前回は、戦争体験者の声として「戦争だったから仕方なかった。ノーと言えるような雰囲気じゃなかった」という声をよく聞くけど、世間に流された人ばかりでなく、信念を貫いた人もいたとして、9回命令を受けて9回とも生還した元特攻兵の佐々木友次さんのことも例に挙げた。どうしてそんなことができたのか、周りに流された人たちと何が違ったのか、それを考えたいということだった。
それで鴻上尚史さんが佐々木友次さんについて書いた「不死身の特攻兵〜軍神はなぜ上官に反抗したか〜」を読んでみた。
第二次大戦において爆弾を抱いた戦闘機で敵艦に突っ込む自爆攻撃で有名な神風特攻隊は海軍によるもの、佐々木さんはその三週間のちに出撃した海軍による初の特攻隊、「万朶隊(ばんだたい)」の一員だった。「万朶」とは「多くの花」というほどの意味。花と散る、みたいなニュアンスか。
まず素朴な疑問として、「9回の命令を受けて爆弾を落としながら9回とも生還した」という点に違和感を感じる人は多いはずだ。特攻隊は爆弾もろとも敵艦船に突っ込む決死隊なのだから、出撃はすなわち死を意味するはずだ。帰路の燃料を積まずに飛び立ったなどという話も聞いたことがある。それなのにどうして通常の攻撃のように爆弾を落とし、帰還することができたのか。
万朶隊の隊長・岩本益臣(ますみ)大尉は、操縦と爆撃の名手で「跳飛(ちょうひ)爆撃」の第一人者だった。跳飛爆撃とは、海や湖で水面に水平に石を投げて石を弾ませる「水切り」の要領で爆弾を弾ませて敵艦船の横っ腹に爆弾を命中させる特殊な爆撃手法のことで、上空から爆撃するよりもずっと効果的な方法だった。岩本隊長は特攻の準備が進む中でたとえ見事敵艦に突っ込んでも大した戦果をあげられないことを早くから見抜いていた。司令部に「特攻がいかに無意味か」という理詰めの公文書を提出したほどだった。
特に海軍と違って陸軍が使う爆弾は人馬殺傷用で鋼鉄製の甲板を貫く徹甲弾ほどの威力がなかったし、軽金属製の機体で突っ込もうとも「卵をコンクリートに投げつけるようなもの」だからだ。
実際、イギリスの小型旧式空母ハーミスは60数発の爆弾を受けてもすぐには沈まず、アメリカの正規空母ホーネットは9発の爆弾(うち数発が甲板を貫通)と3本の魚雷でようやく傾いたという。
結局、岩本が第一回の隊長に任命されたのは、特攻に強く反対した天才パイロットの岩本が出撃することで「もはや特攻しかない」というムードを高める意図があったとされる。岩本は結婚してまだ10ヶ月だった。
陸軍参謀本部は初回の特攻を成功させるためにあえて精鋭ばかりを集めて隊を結成した。その隊員たちは跳飛爆撃や急降下爆撃のような正攻法を文字通り命がけで磨き続けてきたメンバーだった。実際、彼らの所属する師団では毎月最低でも2名が訓練中に殉職していたという。
体当たり攻撃はこうした努力と犠牲の全否定であり、機体には当初、爆弾が固定されていて体当たり以外の攻撃ができない構造だった。
岩本の技量が活かされないことを惜しんだ竹下少佐はこっそり爆弾を手動で落とす方法を伝えた。もちろん命令違反だが、彼もまた理不尽な命令に抗った一人だった。
やがて出撃が迫って来ると、岩本は機体整備の責任者と話し、特攻の無意味さについて理解を得て独断で爆弾を落とせるように改造してもらうことに成功する。そして跳飛爆撃の訓練を積んでいなかった隊員たちに急降下爆撃のコツを伝授し、周辺の150箇所の飛行場の位置が記載された地図を手渡した。緊急時の不時着用だった。
「これぞと思う目標を捉えるまでは何度でもやり直していい。決して無駄な死に方をしてはいかんぞ。」
さらに出撃を待つ間、爆撃の訓練だけでなく、本来特攻に必要ないはずの着陸訓練まで入念に行った。
上記の発言も訓練の内容ももちろん明らかな命令違反であり、死罪に値する。命がけの抵抗のリレーが佐々木の前から始まっていたのだ。
こうして、佐々木が生還するための前提条件を整えてくれた岩本は、軍部の派閥争いの結果、航空戦の経験もないのにあえて激戦地の司令官にさせられた富永の招集により、制空権のない400キロを護衛なし、機関砲なしの丸腰で飛ぶ中、米軍機に撃墜されて死亡した。招集の目的は儀式好きの富永が記念すべき陸軍第一回の特攻を送り出すにあたり激励の宴会を催すためだった。危険だという参謀達の反対を押し切っての凶行だった。(つづく)