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世界平和なう:No!と言った日本人(連載3)
2019/01/21(月)
〈前回のまとめ〉
戦争体験者がよく言う「逆らえる雰囲気ではなかった」。ところが、そんな中でもノーと言った人もいた。どうしてそんなことができたのかという疑問から始めたこの連載。前回は、9回の出撃命令に9回とも生還を果たした“不死身の特攻兵”佐々木友次さんを取り上げ、どういう経緯でそんな奇跡が実現する条件が整ったのかを紹介した。佐々木さん一人で成し遂げられたことではなく、多くの人が理不尽な命令に自分なりのやり方で抗したからこそ、だった。
今回は引き続き、佐々木さんがどんなふうに9回も生還したのかを駆け足で見ていきたい。
1回目、爆弾を投下してから不時着して生還するも、特攻して戦果を挙げてそのまま死んだと報告され、報道もされてしまう。特攻全般がそうだったかはわからないですが、機銃とか全部取り外してあるので、援護で戦闘機が何機か一緒に出撃するんですけど、それでもターゲットが艦載機何十機みたいな空母なので敵艦隊の真っ只中に突っ込んでいくわけです。もう一瞬でも早く引き返さないと生きて帰れないので、援護+戦果の確認役でもあるパイロットたちがさっさと帰っちゃったり、はぐれて確認できなかったり。それでも特攻だから「戦果はあがったんだよな?」っていう無言の圧力があって、盛って報告されるのが普通なんですね。みんなそれを望んでるしね。そういうことです。
2回目、軍上層部は天皇に嘘の報告をしたとは言えないため、次は必ず特攻で死んでこいと命令。空中で他の隊員と集合するはずがうまくいかず、早々に仲間の一人が墜落、爆発したこともあり、出撃せず。
3回目、制空権を握られている地域で、敵に見つかりやすい白昼に危険空域を二機と援護機だけで行けという決死の命令だったが、出撃準備しているところを案の定、敵に見つかり爆撃にあって中止。もう一機に乗るはずの仲間は佐々木から3メートル離れたところで爆撃により死亡。
4回目、途中までの援護はつくが、特攻は一機のみでの出撃命令。やはり白昼、しかも爆弾投下でなく体当たりでと。それに佐々木は「私は必中攻撃でも死ななくてもいいと思います。その代わり、死ぬまで何度でも行って爆弾を命中させます」と軍隊では有り得ない口答え。「考えはわかるが、軍の責任(もう特攻で成果を挙げて死んだと天皇に報告してしまったから)ということがある。今度は必ず死んでもらう・・・」佐々木「・・・出発します」
結果は、援護機の隊長が佐々木をみすみす犬死させることはないと早々に引き返し、みなそれに続いて帰還。「雲が多く敵艦を発見できなかった」と隊長が報告。実は現場では雲がなかったが、出撃前の気象情報とのつじつまは合っていた。
5回目、やはり白昼一機での出撃。援護は二機。米軍の特攻対策として艦載機の再編あり、爆撃機を減らして艦上戦闘機が二倍に。特攻のターゲットである空母の手前にレーダー警戒駆逐艦配備。これにより近づく特攻機をいち早く発見し、戦闘機100機ずつ三波の波状攻撃で特攻を迎え撃つ態勢が整っていた。この鉄壁の防御を、対抗する武器を全く持たないたった二機の特攻機がくぐり抜けて100キロほど飛べた場合のみ艦船への特攻攻撃が可能だった。無謀すぎる出撃。結局特攻前に敵戦闘機の編隊に気づいた佐々木が爆弾を海に落として編隊を離脱し着陸。
「それほど命が惜しいのか、腰抜けめ!」という参謀長の叱責に、佐々木は「お言葉を返すようですが、死ぬばかりが能ではなく、敵により多く損害を与えるのが任務と思います。」と。
6回目、連続操縦と体調不良を訴えたが、「とにかく船はなんでもいい。見つけ次第すぐに突っ込め。今度帰ったら承知せんぞ!」と参謀長に言われ、他の特攻隊について出撃、無事大型船を爆弾投下により撃沈し帰還。ところが、それを知りつつ、大本営は佐々木の二度目の特攻戦死を発表。かつて飛んだきり行方不明となっていた特攻隊員も同乗して戦死したことになっていた。その日は開戦記念日で全体の気勢を上げるためにあえてそのタイミングで、しかも二人の戦死も伝えたと思われた。二度の戦死発表によりさらに決死の命令が下されることが予想されたが、佐々木は逆に「決して死なないぞ」と決意。故郷では二度目の葬儀が行われた。
次の出撃に備えて夜間飛行で移動中に悪天候で田んぼに不時着、奇跡的に軽傷で助かる。
再び参謀長からは「次こそは死ね!」と罵声を浴びる。仲間からは「特攻が生きて帰ればうるさく言われるだろう?」と問われるも、佐々木は「いろいろ言われますが、船を沈めりゃ文句ないでしょう」と返した。この頃には身分の上下の区別もなく、新聞記者にも誰にでもそのように公言するようになっていた佐々木。
7回目、他の特攻隊に追加で参加。援護は最高速度で100〜200キロも米軍機に劣る通称「呑龍」が3機のみ。整備士による機体の整備不良で佐々木だけ出撃できず、出撃した他の隊員はターゲットを捉える前に撃ち落とされた。
8回目、二手に別れて攻撃の計画。佐々木には援護つかず、ただ一機のみ。200隻近い敵艦隊に戦果の確認要員もいない中で一人突っ込むことに虚しさを感じて、独断で攻撃を中止して引き返す。
9回目、司令官自ら佐々木に日本刀を突きつけ「佐々木、がんばれ」と連呼して送り出したものの、整備不良で引き返す。マラリアで高熱を出して寝込んでいる佐々木に将校が「仮病だろう」と罵っているのを見た他の特攻仲間は、それまで特攻隊員の生還を認めなかったが、これを機に「命有る限り特攻せずに戦おう」と決意し、実際に出撃後特攻せずに生還した。
米軍の侵攻により現地軍隊が「各自食料、武器を調達し、死ぬまで徹底抗戦せよ」という無茶苦茶な命令を最後に解散し、佐々木はジャングルで飢えと戦いながら生き延びた。奇跡的にマラリアは再発しなかった。後から新聞記者に聞いたところでは、軍内部で佐々木暗殺隊が組織されており、終戦がもう少し遅れていたら殺されていたそうだ。単に上層部のメンツのために。
日本刀を突きつけて激励した富永司令官は戦況の悪化を見て、「命令で台湾に行く」と嘘をつき、真っ先に逃げた。かつての殺し文句は、「お前たちだけを死なせはしない。最後はこの富永自ら敵に突っ込んで死ぬ」だった。満州で終戦を迎え、ソ連の捕虜になり10年後帰国し68歳で死んだ。
佐々木は北海道の実家で妻と農業を続け四人の子を育て上げて生きた。
(つづく)